安田昌弘の半生

寒かった幼少時代

寒かった幼少時代

1955年6月24日。京都御所のとなりに生まれる。1955年と言えば昭和30年。まさしく「三丁目の夕日」の時代。なつかしく楽しかった昭和30年代。わたしは母から「うちは中の上」と言われて育った。そう、一億総中流時代のはじまり。負けん気の強い母親は「中」だけでは納得せず、中をさらに上・中・下に分類して、中の上と私に言い聞かせた。私もそうかと思い込んでいた。

ところがわたしの家は借家。隙間風というより、どこからでもど〜ぞとばかりに冷たい風が入り込んでくる。ともかく「寒い〜」というのが私の少年時代の思い出。当時は実際に今よりも気温が低かったが、寒さにこたえたのは食糧事情の悪さもあったと思う。私の家は明治生まれの姑(祖母)が仕切っていたので、食事も一世代前のメニュー。だから私は小学校にあがったとき、給食のおいしさに感動した。「おかあさ〜ん、給食みたいにおいしいご飯つくって!」と本気で言ったことを思い出す。(母は辛かったろう)実際、食事は年寄り向きでパワーがない、カロリーが足らない。だから余計に寒い。私はパッチ(ズボン下)を履いていた。が、裾がすぐ短くなる(身長がのびるから)。だから靴下を思いっきり伸ばしてパッチの裾に被せる。でもちょっと動くとスポッと抜けて肌が現れて寒い。

小学校低学年までは家に暖房設備はなかった。火鉢がひとつあっただけ。これにかじりついていた。小学校高学年になったとき、家に始めてガスストーブが来た。ガスの青い炎に熱せられて赤くなったストーブに見惚れていた。6帖の居間に家族9人が集まってプロレスを見る。もちろん白黒テレビだ。そこでガスストーブをガンガン炊いてもだれも倒れなかった。気密性がまったくなくて良かった。ある日、襖をほんの少し(2cmほど)開けた状態にしたら、上のほうでは部屋の暖かい空気がすごい風速で外へ出て行き、逆に床付近では冷たい空気が猛烈に吹き込んでくることを知った。風速はロウソクが消えるくらいだ。そんな中で育って、寒さ暑さがトラウマになったことが、私が超快適空間オタクになった原因かどうかは別にして、私が温熱環境に人一倍うるさく、我ままであることは事実だ。

工作に明け暮れた少年時代

小1のときに京都の大文字山をモデルに工作した。張りぼて細工を叔父におしえてもらい、3日掛かりでつくった。大の字に切り込みを入れて裏に赤いセロファンを貼り、豆電球を仕込んだ。部屋を暗くして、スイッチをいれる「大」という字が浮かび上がり、障子にも移りこむ。我ながらうっとり・・・  その後はモーターで動くものを作るのに凝った。車や戦車が好きだった。と、言ってもプラモデルではない。マーブルチョコレートなどの箱を利用して、マブチのモーターを取り付けて、タイヤをつけて・・・時間が経つのも忘れて自分の世界に入り込んだ。その時は暑さも寒さもわすれた。

最大のヒット作品は小3のときのメリーゴーランド。クリスマスケーキの箱を利用して、真ん中に、ゆっくり回るように戦車用のギアを組んだ心棒を取り付ける。周りにドーナツ状の道をつくる。その道を上下に波打たせ、そこを一輪車に乗った馬に走らせようという設計。馬は3頭か4頭。ところが一輪車はうまく走ってくれない。タイヤが少しでも進行方向からずれると軌道から外れてギュッと止まってしまう。試行錯誤の上に毛糸を手編みするときの編み針(竹の棒針の先に丸い玉がついているもの)を母にもらい、その玉を底にして上に馬を取り付けたらうまく滑って走りだした。しかも馬がランダムにクルクル回って可愛い。めでたくメリーゴーランドは完成した。自分で言うのも変だが天才工作少年だった。

8ミリアニメの中学時代

8ミリアニメの中学時代

ビデオなんてもちろんなかった昭和40年。でも、8ミリ映画というのがあった。フィルムを節約するために開発された16ミリ映画をさらに半分の巾に裂いた8ミリフィルム。これで怪獣ものの特撮をやろうと思った。当時、特撮の円谷といえばカリスマ的存在。ウルトラマンの前のウルトラQの時代。タイムトンネルという外国のテレビドラマもあった。タイムマシンは今でも好きで、時空を旅することを考えるとワクワクする。

当時フィルム代はすこぶる高く、3分間撮影すると1ヶ月の小遣いが飛んだ。学校の授業中は暇だからノートの角にアニメをかいて、それを8ミリで撮った。やっさんアニメの誕生。小さな中学に4人も8ミリ映画オタクがいて、映画について色々議論した。私はリズミカルに短いカットで編集した作品が好きで、バック・トゥーザ・フィーチャーは何度みてもワクワクする。逆に今の映画でも「俺が編集した方がマシ!」と声に出して言ってしまう映画もある。まったくじれったい。中学時代の8ミリの腕が建築専門学校で買われ、学校のプロモーション映画を任されることになった。僕は監督、カメラ、編集、俳優のオーデションなど、全て任された。お山の大将だ! 不良教師の水野先生の家に泊まりこみで編集した。水野先生はそのあと校長にまで登りつめた。先生とは今でもお付き合いがある。このプロモーション映画は全国各地の高校で建築専門学校の生徒募集に使われた。

進路の決定

高校二年の時、進路指導の時間に僕は考えた。どんな仕事がしたいか? すぐ出てきた。1.映画監督 2.建築家 3.美容師 4.料理家 この4つだった。どれも物づくりである。映画監督は楽しみに残しておくことにした。だって、一番好きな趣味を仕事に選んだことによって嫌いになってしまったらもったいないから。美容師と料理人は立ち仕事だからやめた。残るは建築家。建築家になった自分を想像した。フムフム、なかなかカッコいいぞ! かくして1日で決定。そのあと何度か考え直してみたが、どの角度から見ても(見たつもり)建築家が良かった。間違いない! その後、今まで一度も道を間違ったと思ったことは無い。

思いおこせば私の幼少期、小1の頃にはすでに建物に興味があった。自分の家は嫌だった。祖父が雑貨店をしていたので店を通らないと自分の家にはいれない。「ただいまー」じゃなくて「毎度おおきにっ!」とお客様に挨拶しながら入るのは子供心には厳しかった。私の家の扉は全て引き戸だった。ご飯は畳に座ってご飯に味噌汁だった。ある日、親戚のおばさんのところへ行ったらテーブルとイスで、コーヒーとトーストを食べさせてくれた。「こんなお洒落な生活があったのか!?」と憧れた。扉はもちろん開き戸だった。ノブをもって何度も何度も開け閉めした。親父に家の新築を頼んだが、親父は請合ってくれなかった。

そのころ自分の夢ができた。「自分の家を持とう!」 それに、私はませた(変に大人びた)子供であり、そのころから老後の心配をしていたので、とりあえず家を持てば、老後の資金になるだろうというのも理由のひとつだった。

彼女を紹介してください

私の先輩である谷口一級建築士に、彼女を紹介してほしいと頼んだ。「やっさん本気か? 結婚を前提とした彼女がほしいんか?」と、いつもになく谷口は真剣な目つきだ。谷口さんはテリー伊藤のようにちょっとロンパリなので、噴出しそうになるのをおさえて「はい」と答えた。「わかった。紹介してやろう。しかしやっさん、彼女を紹介するには3つの条件がある!」とおもむろに言った。(失礼だが谷口さんは一瞬にして3つもの条件を思いつくほど頭は切れないはず。だとしたらすでに用意していたのか? それとも、自分が誰かに言われたことをそのまま活用したのか?)こんなことを想像する余裕は私にはなかった。

私はどんな条件が出てくるのか、固唾を呑んで待った。元々どんぐり目な谷口さんの目はさらに大きくなり、
「ひとつ、一級建築士に合格すること」
「ふたつ、手取り20万円以上になること」
「みっつ、どんな小さくてもいいから自分の家をもつこと」
と一回一回指をピンとたてながら言った。一つめと三つ目は前からそう考えていたので、ぜんぜん難しくなかった。

給料は自分で決めるわけにはいかないし、頼んだからといって上がるわけではないので、とりあえずできることから着手した。一級建築士は25才で一発で合格した。社会人になって初月給の日から、幼少の頃からの夢を実現するために積立型貯金していたので、(貯金しすぎて小遣いがなくなった時は、親に借りたこともある)26才の時には貯金が500万円くらいできて、初めての家を買った。中古の建売住宅だ。値段は忘れもしない1950万円也。小さいけど庭付き一戸建てだ。1階に水廻りと2室、2階に2室。前の道に歩道があることと、隣の家との間に人が通れるくらいの隙間があるのが気に入った。家のなかを歩きまわった。外からも眺めた。でもなんとなく実感がない、というか、変な感じ。26才の独身で庭付き一戸建てを持っている人は周りにはいなかったし、僕は童顔でとても家の主人とう風貌ではなかった。

3つの条件のうち、これで2つが揃った。残りひとつの課題は、当時は高度成長期だったので、「まあ、時間の問題だろう」と希望的観測をして谷口さんに「できました!」と報告した。条件がそろったので、私が設計したマンションの前でお見合い写真を撮ってもらった。カメラマンはもう一人の先輩である奥田一級建築士が担当してくれた。こうしてめでたく条件をクリアした私に、谷口さんからではく、他の人からお見合いの話しが来て、結婚することになった。

新婚旅行から帰ってた日からバイト

彼女を紹介してください給料が上がるのは時間の問題とたかをくくっていた私は、新婚旅行から帰って受け取った給料袋をあけて驚いた。18万円しかないのだ! 結婚前に女房といっしょに生活費の試算をして、21万円あれば生活できるという計算だった。結婚したら社長もちょっとくらい給料を上げてくれるだろうし、扶養家族ができて所得税が下がるからなんとかなるだろうと、植木等のような考え方をしていた私はあわてた。これでは結婚詐欺だ。お見合い結婚の我々にとって「信頼」とはこれから一日一日と築いていくものなのだ。

私はすぐに奥田先輩の設計事務所へ押しかけた。「何も言わずに3万円貸してください!」「どうしたん?やっさん。まあ、落ち着け」定期預金こそすれ、借金などしたことがなかった安田の発言に、よくよくのことだろうと、奥田先輩はバイトの前借ということで3万円貸してくれた。お蔭さまで私は結婚詐欺にならずにすんだ。翌日から帰宅後のバイト人生がはじまった。

一期一会

私と女房とはお見合い結婚だ。仲人さんに感謝するとともに、ご縁を大切にしている。我々夫婦の考え方は、結婚は契約であり、契約期限は一日である。だから毎日更新している。更新し続けて25年が経った。だから私は寝る時、半分冗談で「今日もお世話になりました!」と大声で言う。女房もまけずに「こちらこそ! 明日もよろしく!」と返す。そして朝おきたら、おはようと言わずに「生きてるか? 今日も会えたなぁ」と言う。かなり気持ちの悪い夫婦である。べつに体が弱くていつ死ぬかわからないわけではない。実は私は第二次世界大戦のときの日本兵が好きで、良く戦争の本を読む。私の親父には昭和19年に赤紙がきて、兵隊に行ったが、運良く返ってきた。「運」と一言でかたづかない。「運」は大きい。どうしようもないほど大きい。

私が「もっと快適な生活を!」なんて夢見たいなことをして飯を食っていられるのは、今の日本があるからだ。アフガニスタンに生まれたらそれこそ命を繋ぐのに背一杯だ。今の日本をつくってくれた先輩、犠牲になってくれた先人の礎の上で生きさせていただいている。だから、真面目に生きる。父は私が小さいときから戦争のことを良く聞かせてくれた。映画といえば「日本海海戦」とか「ああ特攻隊」とかだった。もちろん戦争は良くないが、「生きる」ということを考える時、私はいつも兵隊さん(もちろん日本兵)のことを思う。今の世の中は「生きている」のがふつうであり、かってに生きている、ほっとけば生きているように勘違いしている人が多い。うちの子供など、たまに「死にたい・・・」とか言いながら冷蔵庫を覗いてるので、「食うな!」と怒鳴る。本来、必死になって命を繋がないと生きていけないことを自覚し、子供にも教えている。

小野田少尉

小野田少尉私の心の支えは小野田少尉だ。そう、ルバング島で30年もの間、戦い続けた兵隊さん。私たち夫婦は幸運にも小野田少尉にお目にかかることができた。小野田少尉の本は残さず読んだけど、まさかご本人にお目にかかれるとは夢にも思っていなかった。小野田さんは芸能人ではないし、セミナーの講師でもないから。ことのきっかけは読売新聞。私の新居が完成した日に読売新聞が営業に来た。私は朝日党なのに、女房が「2万円キャッシュバック」の魅力に負けて契約してしまった。私はあきれたが、2万円は悪くなかった。あくる日の朝刊に小野田さんがゲストに来る講演会の記事が載っていた。昨日、女房をとがめないでよかったと思った。

小野田さんは30年間も一人で戦ってきたことも凄いが、私が尊敬するのはその後の行動である。小野田さんが帰還したのは51才の時である。21〜51才まで戦争に採られたら、自分の人生のいいところ全て盗られたわけだから、もう気力はのこっていないはず。なのに小野田さんは52才からブラジルに渡って広大な荒野を耕し牧場をつくりあげた。牧場は大資本がないと絶対につくれる代物ではない。小野田さんは国から補助金をもらっていない。しかも帰国して書いた本の著作権料6000万円のうち3000万円も税金で盗られている。(税務署は戦争より恐いと思ったに違いない)それだけではない。小野田少尉は牧場を完成させたあと、日本の将来を思い子供の教育に乗り出した。

時に1984年。日本ではバブル前夜。物質的豊かさ至上主義で人間性の屈曲に気づいていない時代。 そのときすでに小野田少尉は、日本の子にもっと健全な教育をとの気持ちで「小野田自然塾」を開き、 子供に自然力をつけさせる活動を始め、85歳になった今も続けている。小野田少尉は人生で3つもの大仕事をした。私は今52才。ブルースウィルスも52才。ジャキーチェンは53才。まだまだやらねば。私の寝室には小野田少尉の額(といっても、本の表紙を切り抜いて額装したもの)が飾られている。

家族と愛犬

私には康詞郎と亜由という子がいる。子といってももう大人だ。康詞郎はもの創りには興味がなく、弁護士を目指して勉強中。亜由はちょっと前までディズニーランドで働くなどといっていたが、最近もの創りに目覚めて デザイナー目指して勉強中。子供の話はこれで終わり。 我家には可愛い孫がいる。孫といっても犬だが。ココとジャッキーとモモ。ココとジャッキーはジャックラッセルテリアで、モモはチワワ。三人とも本当に良い子だ。犬は人間より遥かに崇高だ。犬はおなか一杯食べればそれ以上欲しがらない。人間の欲は際限ない。犬は戦争しない。犬は地球を破壊しない。だから私はこう思う。「人間からダメな部分を全て取り去ったら犬になる」

犬は人間の言葉を話せないけど、だいたい理解しているようだ。空気を読むのもうまい。犬はコジマというお店から引き取った。もちろんお金は払ったが、これは犬の代金ではなく、責任をもって幸せにさせてもらう権利金と考えている。犬は受身だ。私と店の人が合意したら犬は私の家に来なくてはならない。犬の顔を覗き込んで一応たずねはしたが、やはり決定権は人間にある。犬が幸せになれるかどうかは人間に掛かっている。だから私は人間の子供以上に大切にする。だって、この子たちは裸一貫で来たんだから。何も持たずに。 うちの家族(人間たち)は幸い4人とも犬が好きで、可愛がる。そしてなにより私の犬たちは、超快適住宅に住んでいる。暑さ寒さ知らず。20年以上生きてくれるかも知れない。

ココ ジャッキー モモ

最終更新日: | 投稿者:, G+

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